びんごトピックス  2002年8月20日号 
 
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浅野味噌が新商品「紅糀味噌」発売

明治三十七年に創業した府中味噌の老舗、浅野味噌(株)(府中市府中町830-1、資本金一千万円、浅野利夫社長、TEL0847・41・2032)は八月九日、紅糀味噌(べにこうじみそ)を使用した「フリーズドライ紅糀みそ汁」を商品化、店頭やインターネットを通じて販売を始めた。
紅糀味噌も六月末に発売した新商品。紅糀は中国では昔から漢方薬として珍重されており、含まれる成分の「モナコリンK」は血中のコレステロールの量を減少させ、「γ―アミノ酪酸」は血圧降下の作用が実証されている。そのため紅糀を使った味噌は健康指向の強い人に喜ばれる商品で贈答需要も期待できる。
これまでの味噌に混ぜるだけでは味噌の味が生かせず、研究を重ねて同社独自の技術でスッキリとやわらかい風味の紅糀味噌に仕立てた。五百g八百円、一kg千五百円。
フリーズドライ紅糀みそ汁は、紅糀味噌仕立てにナス、ワカメ、青ネギ、油あげが具で、ちょっと贅沢な味噌汁。一食百三十円で五食パックは六百円。熱湯を注いですぐに手作り同様の味噌汁が楽しめる。
同社の味噌は加熱処理や合成保存料の添加をせず、伝統の味を守っており、浅野定次郎の創業から二〇〇四年で百周年を迎える。各種味噌の製造・販売のほか、フリーズドライみそ汁各種は一日千五百食のヒット商品に成長、二年前から府中味噌ラーメンも自社商品に加えている。
HPはhttp://www.asanomiso.co.jp


小丸製作所がコンパクトな蒸留装置開発

ステンレス板金加工などの(有)小丸製作所(府中市木野山町60-2、資本金三百万円、小丸英彦社長、TEL0847・68・2301)はこのほど、高さ約六十cmとコンパクトなステンレス製蒸留装置を開発した。
開発した蒸留装置は、横五十センチ、高さ六十センチで、設置のための台を入れても一メートル以下。酒やワインなどの蒸留、竹酢液蒸留、海水から蒸留水への精製など多用途への利用が可能。蒸気の通る管を水で冷やす熱交換機が大きな特徴で、全長五メートルの管をコイル状に巻いてあり、冷却効率が良い。さらに蒸気が外に逃げない工夫から、五十リットル入りのタンク一杯を約四時間、毎分二百cc前後を蒸留でき、不純物を取り除いたあとの歩留まりは九〇%以上。タンクに残った不純物はタンク下部のコックをひねり取り出せる。
蒸留するものに合わせ、熱する温度も常温百五十℃まで1℃刻みで設定できる。さらに誤作動の可能性を小さくするために操作箇所も必要最小限に留めた。ヒーターは電熱式だが、竹炭など販売価格が安いものの蒸留に関しては、プロパンガスなどでランニングコストを抑えるよう改良も可能。販売価格は五十万円だが、目的を限定するなど温度設定機能が必要ない場合、さらに二〜三万円安くなるという。
今回開発した蒸留器ではタンクと熱交換器を別々に設置したが、要望によってはタンクの中に熱交換を設置、一体型にしてさらにコンパクト化することもできるという。
またステンレス製のため腐食に強く、海水からも蒸留水を効率よく精製できるとあって、船舶での利用の話も進んでいるという。同社の小丸英彦社長は「この装置なら泥水だって飲み水になる。衛生的な水が手に入りにくい国や地域でも利用できると思います。また山の手入れが進まず、すごい勢いで竹林が増加していると聞く。竹酢液販売もいいビジネスになるのでは…」と利用法を話している。


スーパー銭湯「夢乃湯」オープン

魚肉練り製品や畜肉加工品等製造の(株)キング食品(福山市大門町、資本金五千六百万円、小畠茂社長)の関連会社、(有)日本エステート(同市東川口町四丁目6-57、社長同)が市内千田町大字千田一丁目2712国道一八二号沿いの千塚池近くに建設を急いでいたイオン温浴施設、スーパー銭湯「夢乃湯」が完成し、八月三十一日オープンする。
この施設は、北海道小樽市に本部を置くイオンハウスと契約したフランチャイズで、中国地方では初、四国には香川県に一カ所あり、中四国地方でも二カ所目。
一階にこの施設の目玉となるイオン温浴施設がある。これは檜のおが屑風呂に酵素を加え、その発行熱で新陳代謝を高めるイオン温浴法で話題を呼びそうだ。また、中四国地方の有名温泉地から専用のタンクローリーを使って温泉水を運びその温泉に入る「温泉の湯」は一カ月ごとに温泉地を変える。四季の花に囲まれた花風呂、マイナスイオン効果の岩風呂造りの露天風呂二カ所。ジェット水流の中を水中ウオークできる走行浴、打たせ湯、薬草湯、遠赤外線サウナ、塩サウナなど多様な設備を施しており、これらの施設は地下百五十メートルから湧水する良質の水を軟水化して十分に使う。美肌効果があるそうで女性には特に歓迎されそうだ。
施設の規模は、敷地四千四百六十平方m、建物は鉄骨造り一部二階建て、延べ床面積千四百十九平方m、一階に七十席の飲食コーナーや、二階には畳敷きの休憩室と軽食コーナーもある。駐車場は百五十台収容できる。
「充実した設備と、空いた時間を利用して一風呂浴びる気軽さと低料金、風呂と健康、娯楽、清潔感、最高のサービスがセールスポイント。使用水は一日三回転させ朝昼晩と一日三回の掃除を行うなど細やかな点まで徹底して実施するサービスで他の施設と差別化を図り、年商三億円をめざす」としている。
総投資額は約五億八千万円。福山市内のほか神辺、府中、井原、笠岡などからの利用客を見込む。
営業時間は月〜木・日・祝日は午前十時から深夜一時まで。金・土・祝日前日は午前十時から深夜二時まで、定休日は第二水曜日、一、五、八、十二月は除く。TEL(084)961・0333


セントラル食品が電子商取引開始

水産物加工のセントラル食品(株)(福山市箕沖町127-13、資本金一千万円、藤井洋二社長、TEL084・954・1800)はこのほど、食品業界の電子商取引市場として会員増強が進んでいる「フーズ・インフォマート」に加入した。
フーズ・インフォマート(アドレス=http://www.infomart.co.jp)は有料食材取引BtoB業界では五千会員と最大級の電子商取引市場。三菱商事(株)や三井物産(株)などが主要株主となり平成十年、同サイト運営会社(株)インフォマートを設立、業界で初めてサイト内での決済代行サービスを導入し、現在売り手会員二千四百社、買い手会員二千六百社と順調に会員を増やしている。セントラル食品では販路拡大を目的に半年前から加入を検討。商談への出張コスト軽減、オンラインの普及とBtoBの有効性を評価、先月加入した。
同社では現在カキの加工に力を入れており、既にインフォマートを通じての引合いもあるが、小ロット取引が多いことから、年内に多品種で各ロットへも対応、安定供給できるインフォマート専用の商品を揃え、本格的に取引を始める準備を進めている。初年度の売上目標は一千万円、数年後には年間売上高五千万円を目指す。
フーズインフォマートはカスタマーセンター、コンサル事業部、取引サポート室が会員に対応、本部と会員が常にコンタクトを取れる体制を整えている。加入企業は登録フォームに基本情報を登録し、会員間で閲覧できる「マイページ」を作成。買い手企業は、販路拡大を求める売り手企業の商品カタログから希望の商品を検索して見積りを依頼、逆に売り手企業は、買い手企業の調達カタログに載った商品への対応を提案、直接商談し、提携金融機関を通じて決済代行までフーズインフォマートが担当する仕組み。
セントラル食品でも実際にフーズ・インフォマートに関わるのは二人と少人数で参加できるのが特徴。売り込み方法などもアドバイスしてもらえるという。同社加工事業部総務部の倉橋彩子係長は「サポート体制も充実しており、今後の展開が楽しみ。小ロット取引でも利益の出る商品を揃えたい」と話している。



こぼれ話  2002年8月20日号

篠原氏を迎えて知る 西郷四郎と尾道の縁

山陽工業(株)(尾道市)の社員大会を記念した講演会講師に柔道の篠原信一氏が招かれた。シドニーオリンピック銀メダリストで世界選手権大会二階級制覇という偉業から「世界最強の男」と呼ばれる篠原信一氏だが、意外に素朴で心の向きは柔道一直線といった人柄だった。「尾道と柔道の縁をご存知ですか」との質問には「西郷四郎ですね」と即答だった。これを機に西郷四郎を調べてみるとその人生に驚かされる。
柔道家、西郷四郎は一八六六(慶応二)年会津若松の生まれで、小説「姿三四郎」のモデルとして知られる。幕末の激動で揺れた会津藩の藩士西郷頼母(戊辰戦争では軍将として官軍戦う)の養子となり、武家に伝わる柔術「御式内」(のちに合気道に発展)を修め、上京後、柔道の基礎とした。大正十一年十二月二十三日、尾道市は浄土寺の末寺、吉祥坊(現在は廃寺となっている)で五十六歳の生涯を終えている。
「姿三四郎」は富田常雄の書いた小説で、黒澤明監督が初めて映画監督として腕を振るった処女作(昭和十八年)としても知られる。柔道に通じた富田常雄だが、それもそのはず父は西郷四郎と並んで講道館四天王に数えられた富田常次郎だった。
柔道では著名な講道館だが、その基礎を築く出来事は西郷四郎が代表として戦った警視庁武術大会。同大会で認められたことで講道館の名声は不動のものとなったが、その大会で使った技「山嵐」が日本人のハートを捉えた。身長百五十センチ余りの西郷は柔道家としては極端に小柄だったが、大男たちをばったばったと人形のごとく投げ飛ばした。
また、西郷が創設にかかわった講道館の創設者は、学習院の英語教師だった嘉納治五郎。そして嘉納家の本家は灘の銘酒「白鶴」で知られる現白鶴酒造(株)でもある。
柔道を極めた西郷だが、二十五歳のとき「支那渡航意見書」を残して突如として講道館を去っている。そして明治二十九年には台湾に渡り大陸問題運動家として日中関係にかかわり、長崎で同じ運動家の宮崎滔天の創刊した「東洋日の出新聞」に参画、記者として筆をふるう。日本が日清・日露戦争を挟んで揺れた難しい時代。宮崎を通じて孫文とも交流があったやも知れぬ。
大正九年、リュウマチを患っていた西郷は家族とともに尾道に移り住み、吉祥坊で暮らした。台湾製糖など尾道と台湾の交流は深く、誰か勧めた人があったに違いない。
西郷終焉の地尾道には西郷四郎の銅像が建つ。市立図書館から浄土寺へ向かうと道は到着する手前で元筒湯小学校へ向かう急な坂道と分かれるが、その道と道に挟まれたわずかな斜面に銅像は建っている。
毎年十二月にはスポーツ少年団交歓柔道大会が尾道で開かれ、柔道少年らが日本柔道を背負った西郷四郎を偲ぶ。尾道を訪れた篠原氏は講演会場で講道館での全国大会に出場する小学校六年生と四年生の二人に投げられてみせ、身長百九十センチの世界最強の男は百五十センチほどの少年に見事投げ飛ばされた。柔道少年にエールを送った柔道家の来尾を西郷も喜んだに違いない。(J)

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